こぼれる光の粒達や木々の擦れを走り書きする

日々アート的走り書き



私はこのブログで、いろいろな人のアート作品について語ってます。
下のは、そんな人の撮ってきた映像です。編集なしです。



風と光の走り書きです。・・・、端的に言えば「影」です。

映画のようなストーリーは皆無です。ただの「影」。


興味を持っていただけたらご覧下さいね。


※サーバーに大変負担がかかる仕様となっています。
また、QuickTime形式ですので、みるためにはQuickTime Playerが必要です (QuickTime Playerのインストールはこちらからできます)。


容量が重いので、見るまで随分待たされます。
忌憚ない批評、感想、印象などお伝えいただければうれしいです。




※【注意】クリックすると、自動的にQuickTime形式ファイルが呼び出されます。
windy14
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| 運営者の映像作品 | 00:00 | comments(0) | - |
ジョー・プライスさんを囲む対話会

若沖とジョー・プライスさんの出会い


若沖を日本の研究者、コレクターよりも先駆けて作品を評価し、世界中に作品を喧伝している国際的コレクタージョー・プライズさん。

今年春から京都嵯峨芸術大学の院の客員教授となりました。ジョー・プライスさんのコレクションは現在愛知県美術館で公開されています。六月十日まで、だったかと思います(まだ、観に行っていません)。動植綵絵は以前の文章に詳細を記しました。

若沖の作品を真っ先に評価したその先見性や美意識、ふだんの考えかたがどのようなものなのか知りたく思い、京都嵯峨芸を訪ねました。



冒頭、プライスさんの解説を交えながらの映像(翻訳字幕付)を鑑賞します。
とても凝ったつくりで、若沖の作品の真贋、独自性を解説し、水墨画のタッチ、升目の贅沢なアップを見せてくれました。
プライスさんの奥さんの解説と司会進行者のやり取りもありながら、話はまず現在行われている若沖展の動植綵絵に対する印象と見解、自然について、生け花と自然、自然光と人工光での作者の意図、コンピューターを使用した色彩研究などへと話は進みました。



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| 京都の講演会 | 03:08 | comments(0) | - |
林勇気 個展「やすみのひのしずかなじかん」

想像上の、ゲーム ・ 記憶の中の、ゲーム ・ 現実の、ゲーム


京都ニュートロンでの展覧会が京都ニュートロンにて行われています。

ファミコンを小・中学校時代に遊んだ方には懐かしいものでしょう。或いはこの展覧会は現在のプレイステイションポウタブルやウイー等に慣れ親しんだ世代の人たちにとっては新鮮に映るものでしょう。

今回の林さんの手法は、実写の人物や、風景といった映像をパーツとして切り取り、映像の中に作家さんの意図に基づいて緻密に再構築するというものです。



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| 京都の展覧会 | 23:24 | comments(0) | - |
若冲展 釈迦三尊像と動植綵絵120年ぶりの再会
若沖

若冲の最高傑作「動植綵絵」について


若沖の特別展示が京都相国寺の承天寺美術館で行われています。
現時点での、今年の希有な展覧会と言えるかと思います。
まず、動植採絵と仏絵の同時展示です!ひとつの空間の中に30点もの動植綵絵はー・・・圧巻でした。


若沖(ズーム)


見ている人はそれなりの数いたのですが、会場に入り若沖の動植綵絵を目にし・・・なんともいいようのない幸福感に包まれました。ちょっとした感動でしたし涙ぐみそうになりました。
動植綵絵はとても、素敵でした。3、4時間観ただけではとても物足りません。毎日ここへ通いたいほどです。

写生し、自分の内なるものへと消化し、表現することの喜びがそこにはありました。大典禅師の画材の援助があったと聞きます。

作品からは思わず唸ってしまうような色彩の鮮やかさ、若沖という画家のみずみずしいまでの感性、マティスのようなリズミカルなフォルムのリストラクチャー。
それら諸要素が渾然となって見る人を幸せな気持ちにします。

しかし、若沖の作品には、単に高品質な作品というだけではいい表せない謎めいたものがあります。

例えば老松白鳳図(ろうしょうはくほうず)のような幻想的な、ふわふわ浮遊しハートを観ていると、別の快楽的な世界に連れて行かれるような気分になります。
辻 惟雄氏が奇想の系譜で指摘していましたように、いくつかの画面には「丸」があります。鑑賞者を見つめ返しているような「丸」の多様−−、私はそこから暗示的なカメラアイを感じました。


以前も、ゆっくりこの若沖の絵の謎を考えてはみたのですけれども、これは未だに解けない謎の一つです。たしかなことは、「穴」の存在が鑑賞者と作品との距離を縮める効果を果たしていることです。なんとなく、絵の向こう側から誰かに見返されているような感覚があります。

若沖の感性は、ほんとうに死ぬまでみずみずしかったのだろうなと思います。

老松鸚鵡図という作品があります。ここから汲み取れるのは、二匹の鸚鵡を両親のイメージに重ね、後方の枝にとまっている補色のインコはどこかしら厭世的な雰囲気です。あたかもで若沖自身のメタファーのようです。そんなことを感じす。モチーフをシンボルとして自己内面を表現してしまうのも、当時の時代背景を考えてみても、奇抜で斬新な、興味深い若沖の特長です。

雪中鴛鴦図(せっちゅうえんおうず)を観ていると、ジャクソン・ポロックもびっくりのドリッピングも大胆でいて、鳥の描写は繊細です。ウォーリーをさがせ、に近い楽しみかたもできるのが、若沖の遊び心だとなと思い
ます。どこか、ブリューゲル(Pieter Brueghel the Elder)の「雪中の狩人(The Hunters in the Snow)」のような世界観に通じるものがあります。




釈迦三尊像が会場の真ん前に据えられています。

祈り。若沖のぎこちなく、畏まった筆跡からそういったものを感じられました。
線の一本、一本を祈りながら、描いたような気がします。実際にそうでしょう。



初期の作品もよかったです。動植綵絵とは違い、鮮烈な色彩はまだ見受けられませんが若沖らしさはこのころから、絵の中に溢れています。
左右梅図の機知に富んだ画面構成は見事ですし、立鶴図の大胆簡潔な鶴の描写にはシビれます。
葡萄をモチーフとした鹿苑寺大書院障壁の水墨画も春先に庭が目の前に広がっているかのような爽快感がありました。

若沖の作品をみていていつも不思議なのは、こんなにも斬新で、新鮮な瑞々しい気持ちになることです。江戸時代の日本画のなかにあって、やはり若沖の描いた世界は異質です。とても現代につくられた作品ではないかというような新鮮さに溢れています。

初期作のなかで一番好きな作品は伏見人形図です。
奇才の手慰みといいますか、なんだか奈良美智さんの作品を横において一緒に鑑賞したいなと感じました。

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| 京都の展覧会 | 19:46 | comments(0) | - |
星の王子さま展/大丸ミュージアムKYOTO

大丸ミュージアムKYOTOの星の王子さま展 -サン=テグジュペリの政治性-


世界初公開となるオリジナル原画、「実業屋」を観ることができました。
会場では、作品のコンセプトをくみ取り、象徴的なメタファーとそれの持つ意味の解釈をいくつか紹介しています。サン=テグジュペリさんの原画での下絵、キャラクターの推敲を目にすることができました。また、サン=テグジュペリさんのドローイングのなかのひとつで印象的だったのが、王子さまと悪魔と燃えている幾棟もの家々。熾烈な戦争へ突入しつつあった当時の世相と、作者の心のありようを感じずにはいれませんでした。


今回の展示で改めてフランスの版元とアメリカのレイナル&ヒッチコック社との仕上がりの違いを感じました。サン=テグジュペリさんの落書きを見て出版を勧めた夫人も素晴らしいと思います。


会場内には、宮崎あおいさん出演のミュージカル 星の王子さまのDVDもしっかりミュージアムショップにおいてありました。今回、とくにほしぃぃい!と悩んで仕方なかったグッズがありました。

あの、「うわばみ」のぬいぐるみです。そう、へびです。
そうです。あのうわばみ(ヘビのことです、フランス語原文でもヘビの婉曲的表現となっているとのこと)が、象を丸ごと飲み込んだ、うわばみのぬいぐるみが置いてありました。もしかして・・・、いや、たぶんと思い、うわばみのお腹の部分についたジッパーを開けてみると、中には小さい小さい象が食べられた状態で入っていました。作品の世界観そのままに、象が入っていました。アレは素敵でした。

あと、今回の展示でサン=テグジュペリさんがエールフランスに関わっていたとはちょっと知りませんでした。



資料 ; サン=テグジュペリの隠された史実について、興味深い原稿
2.薔薇と三本のバオバオ

サン=テグジュペリ伝説の愛
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| 京都の展覧会 | 00:12 | comments(0) | - |
聖地★巡礼

聖地★巡礼


国立民族博物館に行きました。
会場内は、映像が展開しています。同館の大森教授の民俗学を映像というメディアにアーカイブ化するという試みですね。ひとりの元陸軍勤務だった屈強な還暦を過ぎた男性に同行して、聖地巡礼に関わる人々をリサーチしています。美術館では味わえないものがありました。たとえば、ジョン・ケージの"4"33"が生への飽くなく希求、生への希求そんなことを抽象的ですが、感じることができました。

恐山でのイタコさんがたの記録映像、お遍路さんを巡る人々、そういったドキュメントも見ることができます。単に、聖地=宗教というものではなく、そのような巡礼を通して、人は自分の今まで生きてきた道、これからのことを見つめ直すことができる・・・、巡礼にはそのような機能が残っているようです。翻って、美術には、特に現代美術には、消費主義側面が濃厚です(そうですよね?)。善悪には関係なく、メセナ企業、公立美術館は戦略的に低予算で扱える現代美術を取り込んでいっています。税金を無駄に浪費する訳にもいきませんから、そのような経営戦略は妥当なことでしょう。しかし、実際に鑑賞する一人間の立場で考えて、ミュージアムショップの売上貢献や、入場者数のカウントダウンにはあまり興味が湧きません。
要は、観て、触れて、感じることができるのか。心に響くものがあるのか。そういうのがこれからますます重要なのではないでしょうか。

そういう意味で、今行われている聖地★巡礼展は興味深い展示です。
現代美術に多く見受けられる観ていて、単なる珍奇なもの、衝撃的なものは、何一つありません。しかし、この展示には人の心といったようなもの、悩みや苦しみ、口笛、喜び、苛立ち、まあ人生の縮図といっても差し支えない、脚色のないストーリーがあります。聖地に関する伝承が例え非現実的で荒唐無稽なものであっても、聖地を目指す人たちにとっては現実そのものです。彼らが聖地にたどり着き、「新しい自分を発見した」「生まれ変わった」という心境になることも、切実な彼らの現実です。



興味深いナレーションがありました。
「坂道だったら一心不乱に登ることだけを考えることができる。でも、平たんな道は何も辛くない。だからこそ、途中でクヨクヨ考えだすんだ」
まるで、このライフそのものを言い表したかのような言葉です(多分このような表現でした)。
巡礼は、肉体的にも精神的にも過酷だというのがわかります。彼らは、みんな、、孤独です。家族連れや仲間と一緒の巡礼者も大勢いらっしゃいましたけれども、やはり彼ら一人一人が内に抱えた問題とともに、自分と対話しながら、巡礼の歩みを進めていたのだと思います。

「歩け。歩きながら考え続けろ」

男性はそういいながら、或いはそう自分に言い聞かせながら、歩いていました。歩くことで、歩き続けることで、人生を考える。。。これは、何かの比喩ではなく、実際に私たち現代人が疎かにしてしまっている行為なのかもしれません。上映されていた短編映画もどれも興味深いものでした。二階に展示されていた幾多の映像アーカイブのなかで、私はすっかり「音楽」の映像に魅了されました。そこには、今まで見たこともないような楽器から溢れ出る美しい音色が奏でられていました。立命館大学生らのバーシャルシティ、鑑賞者の映像撮影に関する大森教授のアテンションもメディアリテラシーについて考えさせられます。或いは既存の公立文化施設の必然性を考えざるをえません。

    聖地★巡礼展は、
  • 最近、美術が心から楽しめない
  • 自分と対話するのが辛い
  • その他、現実的な諸問題についてじっくり考えたい


そのような人たちにおすすめできる特別展示です。自分探しを続けてる方にもヒントにはなるかもしれませんが、この展覧会を観ただけでは、自分は見つかりません。展覧会を観て、歩き続けるしかないようです。

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| 大阪の展覧会 | 23:29 | comments(0) | - |
母の日どうしよ

「毎年花を贈ってくれるのはとてもうれしいんだけど、枯らしてしまって悪いから、今年はもう、送ってこないで」


そのようなメールを実家の母からいただきました。

枯れてしまう・・・。
私としては、いつかは枯れてしまう花というもの、を楽しんでほしかったと思っていたんですが、すべての生命を尊ぶ母の気持ちを思い出し、今年は別の何かを考えます。

思い出を共有するという意味合いで、旅行…、温泉、国内旅行も考えましたが、父の不在時に出掛けるのも何だか気が引けます。母は私同様、ブランドやジュエリー類にあまり関心を示さない方ですから、何か「思い出」「記憶」「美しい」その辺をキーワードに考えます。

まあ、私自身アートで生計を立てている(立てようと、している)身なので、アートに関係のあるものにしようかな、と考えます。

実家の内装に新たな息吹を吹き込むような新鮮さと同時に、ある種の懐かしさ(母はもう50代後半の方なので)を喚起させるようなものを考えます。

まず、いわさきちひろさんの画集、ジグソーパズルを思いつきます。母は黒柳徹子さんの「トットちゃん」が好きだったなと思い出します。「いわさきちひろ」・・・。うん、わるくない。

でも、もちろん私もいわさきちひろの作品は大好きですが小さな子供がたくさん登場することを思い出します。相も変わらず結婚願望の希薄な私としては、母に孫とか赤ちゃんということに思いを巡らさせてしまうのは少々厄介です(こういうことにかけては計算高いですね)。

思い留まり、いっそ母には全く疎遠なコンテンポラリーのアーティストの画集を送ってみようかなと考えます。
昨日なぜか普段決して見ないような・・・james jean、ray caesar、Mark Ryden、Trevor Brown、上田風子、ヘンリーダーガー、などの作品をチェックしていたので、このような濃厚なアーティストたちの作品は団塊の世代である母にはすんなり見てもらえなさそうだな、と感じます。
いや、アートとして素晴らしい表現なんだから、何も気にせず素敵な画集を送れば良いじゃないか!!とも一瞬思います。いや、そもそもこれは母の日のプレゼントなんだから、と思い直し、上記アーティストらは候補リストから外します(友人知人のバースデイプレゼントとかならばいいんだろうけれども)。

奈良美智さん、蜷川実花さん、高木紗恵子さん・・・「鮮やかさ」というのではOKなのですが、・・・。どうもイマイチ、直感が「贈りたい」と思えません。奈良さんの作品もパッと見ポップだけれども「ちゃんと」作品と向き合うと怒り、苛立ち、情念とかの負のエモーションが込められているからなあぁぁ、好きなアーティストだけれどもやめとこう。高木紗恵子さんの画集は手に入らないからあきらめよう。むしろコレは「絵」として贈るべきから、というよりそもそも絵として贈った場合、ずいぶんお金がかかることになるなぁ。蜷川実花さんの造花の写真集が綺麗だったのだけれども・・・、墓とか死とか重いテーマが根底にあるので、やめとこう。こういうシリアスな贈り物で父とケンカなんてもうこりごりだし。

無難な贈りもの?
そんなものはクソ喰らえ。
とは言え、たかが贈り物で夫婦喧嘩なんてウンザリさせられます。

母の日といえども、贈るからにはこちらもコンセプトとテーマは掲げてさりげなく贈りたいと思います。


「新鮮さ」「奇抜さ」「懐かしさ」・・・。最初のいわさきちひろさんのでもいいかなぁと思い直します。
いわさきちひろさんの作品もパッと見はかわいらしい、とかきれい、とか日本人特有の情緒面に働きかける効果はあるかと思いますが、戦争、子供を通して生命そのものにアプローチしていた彼女のライフワークは今も色褪せないと思い直します。それに、これなら、様々な視点から視ることが可能というところが、いいなぁと思います。てか、思いました。蜷川実花さんの死者に捧げる造花を暴力的な色彩で表現する作品集も気にはなりましてけれども、母は頭のわるい人じゃないから多分、ちゃんと作品に込められているものを読み取ってしまうでしょうし。そうなると・・イヤ。実家が暗くなる。でもいわさきちひろさんのさくひんだってちゃんと作品を視れば、大切な人の死や、失うこと、喪うこと、損なわれることが根幹にあるなぁ。いや、大丈夫でしょ、うん。

買う前にもう一度いわさきちひろさんの画集を見直します。
やっぱりこのタッチとか色のにじみとかパステルの線ひとつとっても過激に攻めてるなあ。戦後間もなく、戦争美術に精を出してた前衛芸術家たちや絵を書けなくなってた抽象画家たちとは別の場所で、絵本でもって、彼女は彼女の仕事をダイナミックにやってったんだ。うん、少女趣味で情緒に流されそうな面もいわさきちひろさんの作品にはあるのは事実かもしれないけれど、私は直感でいわさきちひろの作品を好きなまま。揺るぎようがない。(生命?命?ビョーク。)

コレを母の日に贈ろうと思う。枯れないし。
絵に描かれた花は永々に咲き続けるし既に死んでる。同義。水をあげなくても枯れないでもあれをあげないと画集の花は全て死に絶える。
ん〜、去年とコンセプトはあんまし変わらんよね。

アメリの小説を贈ったときよりかは喜んでもらえるとハッピー。
んん〜、父の日に毎年毎年ビールというの、ヤ。


| 考えたこと | 16:01 | comments(0) | - |
権力と金と芸術

昔、国家主体で五年の短い準備期間で作られた大阪万博。
今現在はパビリオンはなくなり、代わりに木々が繁茂している。

ゴールデンウィークの期間中、団塊の世代の夫婦や、その子供にあたる家族らが、それぞれ広い公園で休日を過ごしている。


日本の美術史を考える上で、万博を無視することはできない。

岡本太郎氏の「太陽の塔」は、単にそのシンボルであって、万博で起きた事件を明らかにはしない。
万博には、具体、モノ派、九州派、グタイピナコテカはじめ、当時の前衛芸術、現代美術が国家主体で召集された。
過去の美術手帖で北澤氏が指摘したかと思う。
戦争美術の始まる前の利己的な芸術観は「危険」なものだ。
それは個人の利己的な欲望の暴走へとつながりかねない。
しかし、その欲望は、屈折し、戦時においては権力と結び付いた。

明治新政府による近代絵画の技法の導入時と似ている。
技術の移植は、確かに日本独自の土俗性やサブカルチャーを排除しようと努めたことがわかる。
西洋の文明に追いつこうとする、羨望、向上心、焦燥もあったのかもしれない。
明治期、日本と諸外国の立場のパワーバランスは明らかに日本が劣勢であった。
日本の絵描きは、好奇心もあったかもしれないし、西洋文化の自然主義に根ざした空間表現に圧倒されただろう。
自分の国の浮世絵や琳派の直裁的な空間表現のクオリティを客観視できていなかったのかもしれない。
・・・、それだけ必死だったのだろう。
当時の芸術家たちも。マイノリティを許容する社会ではなかったかもしれない。



現在を生きる芸術家は、西洋絵画を模倣したことにコンプレックスを持ち続けたまま、芸術作品をつくっていても、いいのではないか。
文化は、その時代の権力のある場所に集まってしまう。
好き嫌いではなく、これは、摂理だ。
ルイ14世コレクション、後のルーブル美術館所蔵となる作品郡。
ナチス時代のベルリン(退廃美術と見なされていた)、日本の京都三十三間堂の木彫も当時の精鋭の職人らが作り上げた。
現在の権力の中枢はアメリカであり、ニューヨークのコンテンポラリーアートは今も世界でトップクラスだ。

しかし、他者の評価は一度脇に置いておいて、権力と芸術の関係を、わたしは図式のみで考えつづけてみたいと、思う。
人の歴史を振り返れば、「辺境」と呼ばれる場所ででも、権力とは関係なく、作品は生まれる。
古代エジプト、ポンペイ・・・文化のありしところに、例外なく権力は存在した。

権力と芸術を切り離して考えることはできない。

自閉、総合失調症などの「精神の狭間」で生きる人たちの作品には権力などにはお構いなく、魂が宿っている。
理屈でなく、ひとつひとつの作品に圧倒される。
その後すぐに、ニューヨークで流行りのアーティストの作品を見ても、同じような感動は、あまりない、ときもある。
アウトサイド、と他者が揶揄しても、彼等の作品には、圧倒的な世界観がある。
もちろん、それは全てではない。
一部に過ぎない。

この文章に答えは、ない。
権力と金と芸術。
マントと、屋久島と、豊臣秀吉。私のオブセッションに過ぎないのか?

| 考えたこと | 20:13 | - | - |
「脳!−内なる不思議の世界へ」

脳!−内なる不思議の世界へ


大阪歴史博物館でやっている「脳!−内なる不思議の世界へ」の展示を見に行きました。芸術に興味ない方にも楽しめる、興味深い展示になっています。

脳を取っ掛かりとして、考えかたそのものの再考を促すような展示になっています。

印象に残ったものから順に…説明しましょう。




人の横顔の輪切り



樹脂で固めてるそうですけど、人の皮膚部の頭部から生えている箇所や、横顔の輪郭を眺めていると、ここにある標本すべて、私と同様に呼吸をし、モノを考え、愛や人生の意味を考えあぐねた、同じ人間だったのだろうなと思います。

輪切りにされた横顔はところどころ朽ちていましたが、美しい女性の面影を残していました。

途中、学芸員の方が、剥き出し(樹脂でちゃんと固めている)の脳を触らないようにと教えてくれました。その流れで、いろいろ人の脳の進化について教えてもらいました。

剥き出しの脳も心ない人が触ったりしているせいか、ずれてカタチが崩れています。献体者の好意で、私たちは本物の脳を見ることが出来るんですから、イタズラする輩の気持ちが、私にはわかりません。

幻聴体験



第三部の展示で紹介されていた総合失調症の患者さんの幻聴、幻覚のシミュレーション。「空耳?錯覚??」ではすまされやすい、当の本人にとってリアルな統合失調症の幻聴体験。


こんな、狂った世界は、耐えられない・・・・。


こんな症状がずっと続いていたら発狂しかねない、と思います。
そう思います。だから鑑賞スペースにしきりや13歳以下の鑑賞を制限したりなど、していたのだな、と思います。

…夢に出そうです。

日本人にひとりの割合で、(120万人?!)統合失調症だと、言いますから、ちょっとした驚きでした。統合失調症患者さんへの多くの理解が必要だと思います。

見終わった後、アウトサイダーアートのことを思い出しました。
ヘンリーダーガーとか。

BMI



BMIをつかって猿の脳にICチップを直接埋め込んで、猿にロボットアームを操らせている映像もよかったです。
脳からの命令で機器を操作できるようにする「ブレイン・マシン・インターフェース」(BMI)。器用にお猿さんはロボットアームを駆使してエサを食べていました。




情けないことに、少々、体にこたえました。
(この文章書ききったら、横になります。)

私にとって、この展示はインパクトが強かったのです。

今世紀は人の脳内世界が「ありのまま」であるはずの社会すらも飲み込んでしまう近未来を確信しました。

今の脳科学の進歩と、人の止めどない欲求が続く限り、人の心の中=
「脳内世界」の具現化は目に、見えています。

そのわかりやすい例のひとつとして、インターネット空間があります。
ココも、人の集団欲、性欲、金銭欲によってどんどん増殖し拡大しているものです。

脳とネットの関わり。脳とコンピュータとの関わり。
脳の可塑性、ネットというひとつの大きな「脳」のような知の集合体。

「攻殻機動隊」のような電磁世界のリアリティの実現はもう、目の前です。

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| 大阪の展覧会 | 22:57 | - | - |
ベルギー王立美術館展/杉本博司/国立国際美術館

ブリューゲル作品で見慣れない作品「イカロスの墜落」がありました。
これは、実際の作品を観に行くしかないな、と思い、国立国際美術館へと足を運びました。
最近、赤瀬川原平さんの「赤瀬川原平の名画読本―鑑賞のポイントはどこか」という本を読み、少し、意識して足早に作品を鑑賞してみようと考えました。

会場内には、ブリューゲルはもちろん、ペーテル・パウル・ルーベンス、ルネ・マグリット、ポール・デルヴォー、フェルナン・クノップフなどなど、絵画の巨匠たちの作品が並んでいます。

でも。そんなネームバリューに関係なく、サクサク会場内を廻り、気になった作品をもう一度見てみました。

そのリストはピーテル・ブリューゲル[父](?)<イカロスの墜落>、ピーテル・ブリューゲル[子]<婚礼の踊り>、ルイ・ガレ<芸術と自由>、ウィリアム・ドグーヴ・ド・ヌンク<孔雀>、エミール・クラウス<太陽と雨のウォータール橋、3月>、ポール・デルヴォー<夜汽車>。

ルーベンスの肖像画は巧いなと思いましたがサクサク観てしまいました。
この日の一番気に入った作品は・・やっぱり、「イカロスの墜落」です。いろんな角度から楽しむことができる先品です。

同時開催でコレクション展で展示していた杉本博司さんの作品も、展示の見せ方、空間の見せ方がすごいなと思いましたが個々の作品は・・・前森美術館で見たせいもあってか、どこかこじんまりした印象が拭えません。いつも不思議な感覚に陥るのが、 絵画を元にした蝋人形を肖像画風に撮影した写真作品です。また、観念の形シリーズの作品は、絵面ではなく作品のコンセプトや概念を楽しむ装置なのだろうな、などと改めて考えました。


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| 大阪の展覧会 | 10:22 | - | - |
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