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ジョー・プライスさんを囲む対話会

若沖とジョー・プライスさんの出会い


若沖を日本の研究者、コレクターよりも先駆けて作品を評価し、世界中に作品を喧伝している国際的コレクタージョー・プライズさん。

今年春から京都嵯峨芸術大学の院の客員教授となりました。ジョー・プライスさんのコレクションは現在愛知県美術館で公開されています。六月十日まで、だったかと思います(まだ、観に行っていません)。動植綵絵は以前の文章に詳細を記しました。

若沖の作品を真っ先に評価したその先見性や美意識、ふだんの考えかたがどのようなものなのか知りたく思い、京都嵯峨芸を訪ねました。



冒頭、プライスさんの解説を交えながらの映像(翻訳字幕付)を鑑賞します。
とても凝ったつくりで、若沖の作品の真贋、独自性を解説し、水墨画のタッチ、升目の贅沢なアップを見せてくれました。
プライスさんの奥さんの解説と司会進行者のやり取りもありながら、話はまず現在行われている若沖展の動植綵絵に対する印象と見解、自然について、生け花と自然、自然光と人工光での作者の意図、コンピューターを使用した色彩研究などへと話は進みました。



彼いわく、動植綵絵は釈迦三尊像と合交えて三十三幅で一つの作品なんだということでした。
動植綵絵は釈迦三尊像を引き立てるお供え物のようなものだということでした。

シンポジウムのなかで興味深かったのは自然光と人工光での作品の見えかたです。

作品も襖絵であれば朝の光、昼のひかり、夕暮れ、月明かり、陰、様々な光線の表情があります。それらのなかから作品は固定化されたイメージから解放され、様々な表情を持つ、というものでした。
反して印象派画家モネは藁葺きの絵を16点も違う時間帯に分けて描かなければならなかったのに対し若沖をはじめとする江戸絵画には、一つの作品で(鑑賞される)外部環境までをも許容し受け入れうるものだ、ということが彼の主張でした。
同時性による連続体と、瞬時性による断絶体という違いかもしれませんが、どこか二項対立的すぎるかと思います。むしろそれは西洋と東洋の文化の違いの問題ではなく、美術を鑑賞する際の制度の問題かと思いました。その制度の問題にコレクターの存在無しでは立ち行かないでしょう。



美術関係者のなかで一番アートを愛しているのは、思うにアーティストでもキュレーターでも観客でもなく、純粋にコレクターだと思います。彼らは現実にお金とアート作品を兌換し、作品を社会立場を負って所有しているわけですからね。コレクターの存在無しに現在の文化・・・世界そのものの存在はありえません。

昔でいえば、ルーブルのコレクションの基礎を築いたルイ14世もいちコレクターでした。ですから、コレクターというかたはこの業界で一番アートを愛している、そのことを確認できたシンポジウムでした。
これからもこの会は回を重ねるということです。



若冲になったアメリカ人 ジョー・D・プライス物語
| 京都の講演会 | 03:08 | comments(0) | - |
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