河鍋暁斎 - 近代へ架ける橋
暁斎。
この人は画家であり劇画家であり、漫画家でもあるマルチな絵師。

技術がすごいだけでなく、世を透過する眼力に注視したいと思います。

彼岸の者たちを実像化する力腕がすごい。幽霊画は筆舌に尽くし難い。とてつもない技巧で、この世のものとは思えない「美しさ」を獲得している。ここには暁斎の劇画作家の笑いやユーモアは皆無。ただ、冷静な見えざるものたちへの眼差しがある。

「型破り」という言葉がある。
暁斎も型破りの作品が多いというが、浮世絵、狩野派と基礎鍛錬を10代の時期に着実に歩んだ作家。

独創的な作品を作りつつも、毎日更新していた絵日記や他の作家の模写も試みている。実際、作品内には同時代の作家である、応挙、若沖、蕭白の影響も見て取れる。
下絵の多くにイメージの試行錯誤の跡が見て取れた。幾重にも書き直しのために貼り直され胡粉がひかれた下絵がほとんどだった。

かと思えば、酒の場で即興的に仕上げた大画面の作品もおもしろい。

守備範囲の広い作家だ。
異形の者達への偏愛を感じる。

現代美術家にも暁斎は人気がある。
しかし、暁斎の幽霊画と彼らの作品とでは、その根底にある異形なるもの達への執念が全然ちがう。
暁斎の幽霊画はどこか、大いなる存在に描かされているような気がする。

地獄太夫は傑作。この世の無常を笑い飛ばすようなユーモアとシニシズムが渾然一体になったような作品。

あと放屁合戦の巻物は可笑しすぎました。暁斎がアニメつくったらきっと面白いものになってたんでしょうね。
| 京都の展覧会 | 00:17 | comments(0) | - |
大徳寺の曝涼祭 : 牧谿筆観音猿鶴図
10月の第2日曜日の京都は見逃せないです。
年に一度、国宝牧谿筆観音猿鶴図が一般に公開されています。
インターネット上にいくつかその画像も見受けられますが、画像の質はほとんど悪いものばかりです。
(写真撮影は文化保護の名目上、禁止されています)

ホンモノのすごさ、という言い方は少々凡庸かもしれませんが、
やはりホンモノはすごかったというしかありません。

観音猿鶴図には、鶴図、観音図、猿図の3作の掛け軸で作品となります。
そのうちのひとつが欠けてしまうと作品の圧倒的な深淵性、幽玄性を損なわれます。

とくに、猿図の構成は、現代美術家ローラ・オーウェンズの作品で引用されています。

牧谿について、補足をすれば、牧谿という人物は南宋の代表的な画僧でした。
その水墨画は、当時の日本の水墨画において秀逸な模範の対象でした。

数ある牧谿の作品の中で、最高傑作と言える観音猿鶴図は、宗教性というだけでないと思います。
鶴図で見られる、絶妙な墨が織りなす自在かつ精緻な質感描写。
猿図における大胆なデフォルメ、その絶妙な構成、突き抜けた余白の美・・・。
観音図の下部の岩の表現は本当にスリリング。
周囲の描写が、中央の観音の存在をいっそう力強く、また深遠なものにしています。

外の陽の光が、床に当たり、その光が作品に映える形で参拝者は鑑賞します。
人の動きで作品の見え方は変わります。
掛け軸鑑賞の醍醐味です。
これは、美術館や博物館ではなかなか体験できない鑑賞の楽しみです。

暗がりの中で新たに確認できる筆致の後を確認できたりします。
(例えば、猿図の左下の鬱蒼とした葉の処理は、光の当たり方で見え方が変わります。推測ですが筆だけでは書いたのではなく、箒やブラシのような器具で描いたのではないでしょうか)

また、牧谿筆観音猿鶴図だけをみて満足してはいけないと思います。
所蔵作品が第一室から第六室まで展示されていますが(牧谿筆観音猿鶴図は第2室に展示されています)、第六室からちょっと離れた部屋に牧谿の小さな花の水墨画が掛けられています。

実にみずみずしく、作品のなかの花が今も息づいているかのような印象を受けます。
流麗な線の運び、自在な墨の濃淡は、すばらしいです。
その広い室内がパッと明るくなったかのような印象さえ受けます。
「宋易」と関係があるようです。

そのほか、秋に期間を限定して、黄梅院、真珠庵、聚光院、総見院、芳春院、興臨院、孤篷庵などを公開する場合もあります。
塔頭のうち常時拝観できるのは龍源院、瑞峰院、大仙院、高桐院の4か院です。
龍光院は常時非公開となっています。



京都市北区紫野大徳寺前73-1
:075-492-0068
拝観時間:9:00から16:30
拝観料:400円

交通アクセス
地下鉄烏丸線北大路駅よりバスにて大徳寺前下車

曝涼祭では特別拝観料として1300円が必要です。
図録は1000円。

宋元名画―梁楷・牧谿・玉〓 (1956年)
| 京都の展覧会 | 18:23 | comments(0) | - |
麻田浩展 : 京都市立美術館

心の原風景を求めて


展覧会のポスターが目に留まりました。

そこには、風景がありました。
グレー調のくすんだ遠景に見える湖。

ダブルイメージが交錯する風景。

フィラデルフィア美術館展を
観ようと思ってたのですが

巨匠らの凡作よりもひとりの作家の軌跡をみてみたいと
思いました。

作品はさまざまな技術を用いて
画面の中でイメージを追求していくものでした。
それらはヨーロッパの古典絵画の影響下での方法論です。

初期のアンフォルメル作品などでのマチエールの追求は、
原風景を描いていく後期の作品にも確認できます。

人の居ない風景。
人の存在を剥ぎ取られた風景。

逆説的に、氏の描く風景には
人の不在、ディスコミュニケーション、ディタッチメントをあぶり出しています。

神無き時代に闇雲に
砂上を歩きながら
井戸の水を探し出すような仕事だと思います。

鑑賞者はこのように認識して差し支えないでしょう。

即ち、実際に氏が画面内の
階段を駆け上り
残骸をかき集め
千切れた布をまとめ
小さな生物たちの足取りを観察したのだと。

氏が自ら命を絶った今もなお
その原風景を絵という装置を通して
私たちは風景を目にすることができます。

ここで氏の心の変遷を追体験するだけではもったいない。

その装置をもって各々が
各々の風景をつかみにいけばいい、ということでしょうか。

なぜ、氏の絵画作品の多くが
モチーフに水を必要としているのでしょうか。


凡作も実際に多い。そう思います。
しかし、確かなことがひとつあります。

巨匠と言われる人たちには表現できない世界を
麻田浩氏は表現している(表現しようとしている)。
ということです。

風景は永遠に黙したまま。
誰にもさわれない風景なのかもしれません。

| 京都の展覧会 | 23:59 | comments(0) | - |
片岡健二−渡辺豪 incubation07

京都芸術センターで「顔」の個展がやってます。
渡辺豪さんの豊田市美術館でのベリーベリーヒューマンのインパクトが頭にありましたのでしっかり観てきました。

3Dソフトに様々なスキンを被せているのが渡辺さんの作品の特長。
フォルムはすべて同じなのに、そこに被さっているスキンが違うことから差異が生じ、また別な驚きがあります。

デスクトップで処理された匿名の顔に、不思議な…、親密な感覚を覚えてなりません。

個々の意味が漂泊され、物質的な皮膚のディティールのみの痕跡だけがあります。

マネキン人形に魂の抜けたかのようなスキンを張り付けることで、現代のイコンたりえていると思います。
観ていて宇宙人のようにも見えてきてしまいます。

高精彩な皮膚のディティールは、そのものをみるのではなく、その内に秘められたコンセプトを味わうものでしょう。

顔というキャッチーな作品郡ですが、意図が興味深いです。


もうひとつの個展、片岡健二さんの王道ともいえるコミュニケーションの探りかたは、好きです。
愚直なまでに好きな対象を作品にしてしまっています。今後の作品をみてみたい作家がまた一人増えました。

今回の展覧会を企画したmazzというキュレーター集団の企画、なかなかうまいなと感心します。
可能であれば、一つの空間のなかで二作家の対象的な「顔」を対峙させられたら面白かったろうなと思います。
会場の都合上無理だったとは思いますが。

| 京都の展覧会 | 15:33 | comments(0) | - |
BLOOMY GIRLS(ブルーミーガールズ)/高木正勝(たかぎまさかつ)作品集

高木正勝さんのビデオ・ペインティング



高木正勝さんのDVDを鑑賞。
これまで美術館でしか観れてなかった作品も鑑賞できました。

ちょっと、内容がすごいことになってました。



女性の髪の間から、溢れるように、極彩色が画面中を乱舞していました。

大竹伸朗さんのペインティングのような色彩を感じる箇所もあれば
太陽の表面のうねるような炎にも見える場面もあります。

個々の色が、自分の意志で躍動してるような・・・



終盤の・・・、色と光が 女性の髪にダイナミックに変化していく場面は息をのみました。



絵の具をぶちまけたかのような一見、不秩序な色彩。
完全に作者の意思で自在に画面中を飛び交い、表現として成立しています。

途中、女性を演出するための、色彩なのだと気付きます。

自由自在な色ばかりに目を奪われますが、BLOOMY GIRLSこそが、この作品のいちばんのキモ、です。




高木正勝作品集




| 京都の展覧会 | 20:23 | comments(0) | - |
林勇気 個展「やすみのひのしずかなじかん」

想像上の、ゲーム ・ 記憶の中の、ゲーム ・ 現実の、ゲーム


京都ニュートロンでの展覧会が京都ニュートロンにて行われています。

ファミコンを小・中学校時代に遊んだ方には懐かしいものでしょう。或いはこの展覧会は現在のプレイステイションポウタブルやウイー等に慣れ親しんだ世代の人たちにとっては新鮮に映るものでしょう。

今回の林さんの手法は、実写の人物や、風景といった映像をパーツとして切り取り、映像の中に作家さんの意図に基づいて緻密に再構築するというものです。



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| 京都の展覧会 | 23:24 | comments(0) | - |
若冲展 釈迦三尊像と動植綵絵120年ぶりの再会
若沖

若冲の最高傑作「動植綵絵」について


若沖の特別展示が京都相国寺の承天寺美術館で行われています。
現時点での、今年の希有な展覧会と言えるかと思います。
まず、動植採絵と仏絵の同時展示です!ひとつの空間の中に30点もの動植綵絵はー・・・圧巻でした。


若沖(ズーム)


見ている人はそれなりの数いたのですが、会場に入り若沖の動植綵絵を目にし・・・なんともいいようのない幸福感に包まれました。ちょっとした感動でしたし涙ぐみそうになりました。
動植綵絵はとても、素敵でした。3、4時間観ただけではとても物足りません。毎日ここへ通いたいほどです。

写生し、自分の内なるものへと消化し、表現することの喜びがそこにはありました。大典禅師の画材の援助があったと聞きます。

作品からは思わず唸ってしまうような色彩の鮮やかさ、若沖という画家のみずみずしいまでの感性、マティスのようなリズミカルなフォルムのリストラクチャー。
それら諸要素が渾然となって見る人を幸せな気持ちにします。

しかし、若沖の作品には、単に高品質な作品というだけではいい表せない謎めいたものがあります。

例えば老松白鳳図(ろうしょうはくほうず)のような幻想的な、ふわふわ浮遊しハートを観ていると、別の快楽的な世界に連れて行かれるような気分になります。
辻 惟雄氏が奇想の系譜で指摘していましたように、いくつかの画面には「丸」があります。鑑賞者を見つめ返しているような「丸」の多様−−、私はそこから暗示的なカメラアイを感じました。


以前も、ゆっくりこの若沖の絵の謎を考えてはみたのですけれども、これは未だに解けない謎の一つです。たしかなことは、「穴」の存在が鑑賞者と作品との距離を縮める効果を果たしていることです。なんとなく、絵の向こう側から誰かに見返されているような感覚があります。

若沖の感性は、ほんとうに死ぬまでみずみずしかったのだろうなと思います。

老松鸚鵡図という作品があります。ここから汲み取れるのは、二匹の鸚鵡を両親のイメージに重ね、後方の枝にとまっている補色のインコはどこかしら厭世的な雰囲気です。あたかもで若沖自身のメタファーのようです。そんなことを感じす。モチーフをシンボルとして自己内面を表現してしまうのも、当時の時代背景を考えてみても、奇抜で斬新な、興味深い若沖の特長です。

雪中鴛鴦図(せっちゅうえんおうず)を観ていると、ジャクソン・ポロックもびっくりのドリッピングも大胆でいて、鳥の描写は繊細です。ウォーリーをさがせ、に近い楽しみかたもできるのが、若沖の遊び心だとなと思い
ます。どこか、ブリューゲル(Pieter Brueghel the Elder)の「雪中の狩人(The Hunters in the Snow)」のような世界観に通じるものがあります。




釈迦三尊像が会場の真ん前に据えられています。

祈り。若沖のぎこちなく、畏まった筆跡からそういったものを感じられました。
線の一本、一本を祈りながら、描いたような気がします。実際にそうでしょう。



初期の作品もよかったです。動植綵絵とは違い、鮮烈な色彩はまだ見受けられませんが若沖らしさはこのころから、絵の中に溢れています。
左右梅図の機知に富んだ画面構成は見事ですし、立鶴図の大胆簡潔な鶴の描写にはシビれます。
葡萄をモチーフとした鹿苑寺大書院障壁の水墨画も春先に庭が目の前に広がっているかのような爽快感がありました。

若沖の作品をみていていつも不思議なのは、こんなにも斬新で、新鮮な瑞々しい気持ちになることです。江戸時代の日本画のなかにあって、やはり若沖の描いた世界は異質です。とても現代につくられた作品ではないかというような新鮮さに溢れています。

初期作のなかで一番好きな作品は伏見人形図です。
奇才の手慰みといいますか、なんだか奈良美智さんの作品を横において一緒に鑑賞したいなと感じました。

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| 京都の展覧会 | 19:46 | comments(0) | - |
星の王子さま展/大丸ミュージアムKYOTO

大丸ミュージアムKYOTOの星の王子さま展 -サン=テグジュペリの政治性-


世界初公開となるオリジナル原画、「実業屋」を観ることができました。
会場では、作品のコンセプトをくみ取り、象徴的なメタファーとそれの持つ意味の解釈をいくつか紹介しています。サン=テグジュペリさんの原画での下絵、キャラクターの推敲を目にすることができました。また、サン=テグジュペリさんのドローイングのなかのひとつで印象的だったのが、王子さまと悪魔と燃えている幾棟もの家々。熾烈な戦争へ突入しつつあった当時の世相と、作者の心のありようを感じずにはいれませんでした。


今回の展示で改めてフランスの版元とアメリカのレイナル&ヒッチコック社との仕上がりの違いを感じました。サン=テグジュペリさんの落書きを見て出版を勧めた夫人も素晴らしいと思います。


会場内には、宮崎あおいさん出演のミュージカル 星の王子さまのDVDもしっかりミュージアムショップにおいてありました。今回、とくにほしぃぃい!と悩んで仕方なかったグッズがありました。

あの、「うわばみ」のぬいぐるみです。そう、へびです。
そうです。あのうわばみ(ヘビのことです、フランス語原文でもヘビの婉曲的表現となっているとのこと)が、象を丸ごと飲み込んだ、うわばみのぬいぐるみが置いてありました。もしかして・・・、いや、たぶんと思い、うわばみのお腹の部分についたジッパーを開けてみると、中には小さい小さい象が食べられた状態で入っていました。作品の世界観そのままに、象が入っていました。アレは素敵でした。

あと、今回の展示でサン=テグジュペリさんがエールフランスに関わっていたとはちょっと知りませんでした。



資料 ; サン=テグジュペリの隠された史実について、興味深い原稿
2.薔薇と三本のバオバオ

サン=テグジュペリ伝説の愛
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| 京都の展覧会 | 00:12 | comments(0) | - |
Ryoji IkedaのmatrixとdumbtypeのS/N

普段はネットラジオでのradioioBEAT(エレクトロニカ)をよく聴きます。dublabもエレクトロニカってジャンル分けされてはいますが、実際にはスウィングしているジャズよりの選曲が多い…と思います。時々レコードのプチプチ音が風情あるなと思ったりします。



Ryoji IkedaのMatrixをデスクトップで大音で(ヘッドホンで)聴いていると音響彫刻なんて言い方があるかと思いますけれど実際に空気の震えとか、音の存在とかにラジカルだなと思います。池田さんてのは元dumbtypeの音楽担当の人。
話がそれました、ビットレートが160kbps超えるぐらいだと音はすごく質がいいですが、ネットの回線がちょいと遅くなって一昔前の「針飛び」が起こっちゃうから、多分100年経っても音楽は人の生活と共にあるのかな、と感じます。(音楽というより単なる感想でしたね…。)



追記。最近上でも挙げたダムタイプの1995年作品S/Nの記録映像観ました。凄すぎてびっくり。
pHとかよりも断然持ってかれました。どんな手段を講じてでもこの映像が欲しい!出してくれないかしら、どこか…。古橋さんももちろんよかったけど、女性ダンサーの半身裸の妙な格好の踊りをずっと観ていると、だんだんそういう、妙チクリンな生き物?に見えてきたのが、よかったなぁと思います。あんなうら若いのにあんな恥ずかしい格好が、何故かいやらしく見えない、というのが不思議だなーと思いますねぇ。
で…冒頭部のアジテーションも脳裏に焼き付いていますけれど、様々なフレーズの中で静かに私の心に根に張っているフレーズ。コンテンポラリーダンスだけでは括れない、1995年に起きてしまった「事件」です。

| 京都の展覧会 | 00:52 | comments(0) | - |
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