河鍋暁斎 - 近代へ架ける橋
暁斎。
この人は画家であり劇画家であり、漫画家でもあるマルチな絵師。

技術がすごいだけでなく、世を透過する眼力に注視したいと思います。

彼岸の者たちを実像化する力腕がすごい。幽霊画は筆舌に尽くし難い。とてつもない技巧で、この世のものとは思えない「美しさ」を獲得している。ここには暁斎の劇画作家の笑いやユーモアは皆無。ただ、冷静な見えざるものたちへの眼差しがある。

「型破り」という言葉がある。
暁斎も型破りの作品が多いというが、浮世絵、狩野派と基礎鍛錬を10代の時期に着実に歩んだ作家。

独創的な作品を作りつつも、毎日更新していた絵日記や他の作家の模写も試みている。実際、作品内には同時代の作家である、応挙、若沖、蕭白の影響も見て取れる。
下絵の多くにイメージの試行錯誤の跡が見て取れた。幾重にも書き直しのために貼り直され胡粉がひかれた下絵がほとんどだった。

かと思えば、酒の場で即興的に仕上げた大画面の作品もおもしろい。

守備範囲の広い作家だ。
異形の者達への偏愛を感じる。

現代美術家にも暁斎は人気がある。
しかし、暁斎の幽霊画と彼らの作品とでは、その根底にある異形なるもの達への執念が全然ちがう。
暁斎の幽霊画はどこか、大いなる存在に描かされているような気がする。

地獄太夫は傑作。この世の無常を笑い飛ばすようなユーモアとシニシズムが渾然一体になったような作品。

あと放屁合戦の巻物は可笑しすぎました。暁斎がアニメつくったらきっと面白いものになってたんでしょうね。
| 京都の展覧会 | 00:17 | comments(0) | - |
ムンク展

不安、依存、祈り、嫉妬、欺瞞、希望。

心理学的に彼の作品を解釈することはいくらでも可能でしょう。
彼の作品は、それ自体が、言葉で表せない告白であったと思います。

今回の展示が画期的な点は、ムンク氏の画業を装飾との関係でキュレーションしていることです。
すなわち、個々の作品としての展示ということではなく、連作として、ムンク氏が試行錯誤した空間演出(田中正之氏の言葉を借りれば"The Decorative Projects")を浮かび上がらせたことです。

技法的にはかなり大胆なことをしているように感じます。
絵画の表面の部分部分には、サラキャンのまま、残していたりします(ゼザンヌにも同じような特徴があります)。
このように地と図の関係がファジィであるのは絵画作品として立ち表れるイメージより先に、明確なヴィジョンがムンク氏の頭の中にあったから起こったことだと考えられます。


感情なるものがそのまま、気持ちいいほどに、画面から溢れてきます。

テンペラの作品を制作していたことは意外でしたし、
作品として未完成ながらも素材を飼いならそうとするプロセスが垣間見れて興味深かったです。

オセロ大学の講堂の壁画として展示している「太陽」には狂おしいまでの救心性を感じます。
習作の段階で、とても強烈です。

これが、ムンク氏の視た太陽であり、世界であり、宇宙だった、のでしょう。
観賞していると、めまいがします。
すさまじいエネルギーです。

ムンク氏が目の血管を悪くした後に制作した彩度の高い作品群もまた興味深かったです。

展示は、国立西洋美術館からの巡回展として兵庫県立博物館で開催されています。

| 兵庫の展覧会 | 18:59 | comments(0) | - |
現代美術の皮膚

芸術と生命


国立国際美術館で開催されている「現代美術の皮膚」を鑑賞しました。

ブースごとに参加作家の作品が展示されています。
小谷元彦さんの"SP2 NEW BORN VIPER"がどのようなものかとっても気になっていましたが、真正面からだけでなく、後ろからみても見飽きない上質な抽象画のように感じました。
アルミの平面にハリネズミのような無数のとげが否応なく、痛みを感じさせます。
優雅なフォルム、有機的な曲線は鑑賞していて心地よいです。
細部の骨格の構造にも目を見張るものがありました。

たんなる骨のようなものが有機的なフォルムで表現されることで
実に生き生きとした生命を感じさせます。

命・・・、そう、今回の企画展示に共通するテーマとして、現代に生きる私たちの生命そのものが含まれているかと思います。
美術館側のガイダンスに記されている「内と外」というテーマはあくまでサブに過ぎないと思います。
ありとあらゆる命がテーマ。
そしてこのことは、倫理とも関わるやっかいな問題です。

オルランさんのドキュメント写真は一見「痛々しい」ものでした。
彼女は自身の整形手術を衛星などの伝達手段で多くの人たちにオペの過程を公開するというパフォーマンスを行なっています。

作家自身が医師に自身の皮膚を預け、皮膚の形状を変えるパフォーマンス。
これをすでに9回彼女は行なっています。

人の、精神・・・、容貌や容姿へのコンプレックスから、行なわれる整形手術。
皮膚への人の関心は、心や命の問題と切り離せられないものであることを、彼女の作品は突きつけます。

ヤン・ファーブル。彼は、昆虫たちを自身の作品に取り込み作品としています。
大量の昆虫たちの死骸の集積は確かに抗えない魅力があります。
これが虚無に通じる世界観であったとしても、不思議な印象が残ります。
彼の生きた土地が戦場であったと言う言説を抜きにして、現代を生きるということの意味を深く問いかけてくる作品として成功していると思います。

生命と芸術の関わりを強く意識させられる展示です。
シャーマニズムから芸術が生まれていく過程で生命はどのように扱われてきたのかを改めて考えさせられます。古代エジプトのミイラ、古墳、城門の壁への生柱。生け贄。
強烈な思想や為政者の願望から、人や動物の生命と引き換えに、多くのものが建設され、開発され、創造されてきた人類史。
生命の代償と引き換えにアートに献身するというのもひとつの方法論です。
しかし、今回の展示の全体の印象にも通じますがどこか、疑念が残ります。

自他、プロセスの違いはどうあれ、生命という事象に対して参加作家の大半がどこか無邪気すぎる気がしてなりません。率直にいえば、あまりに制作動機があさはかに感じます。
あまりに私小説的レベルに終始している。

それが、現代のシャーマン(アーティスト = シャーマン)の流行りなのか、と捉えることはできます。
技術はどの作家もすばらしいのです。
どこか虚無の傾向があり、作家自身が救済されるためのヨリシロとして作品が制作されたのではないか。
あるいは、カオスや混淆を押し広げるための儀式として、今回の展示を位置づけるべきなのかも知れません。

見方によっては、グロテスクでもあり、エロティックでもあります。
その中には、嗜好を超えて、それが残酷であれ非情であれ、美しいものがあります。
芸術がこれまでの歴史で人、動植物といったあらゆる生命に対してどのようなことを要請してきたのか。

今回の展示は私にそのことを再考させてくれました。
シャーマンの生命や倫理、美意識、欲望や願い。
現代美術の今後の行く末を考える意味でもとても参考になる展示だと思います。
つまり、今回の展示には確かに虚無の痕跡があるからです。


| 大阪の展覧会 | 22:12 | comments(0) | - |
大徳寺の曝涼祭 : 牧谿筆観音猿鶴図
10月の第2日曜日の京都は見逃せないです。
年に一度、国宝牧谿筆観音猿鶴図が一般に公開されています。
インターネット上にいくつかその画像も見受けられますが、画像の質はほとんど悪いものばかりです。
(写真撮影は文化保護の名目上、禁止されています)

ホンモノのすごさ、という言い方は少々凡庸かもしれませんが、
やはりホンモノはすごかったというしかありません。

観音猿鶴図には、鶴図、観音図、猿図の3作の掛け軸で作品となります。
そのうちのひとつが欠けてしまうと作品の圧倒的な深淵性、幽玄性を損なわれます。

とくに、猿図の構成は、現代美術家ローラ・オーウェンズの作品で引用されています。

牧谿について、補足をすれば、牧谿という人物は南宋の代表的な画僧でした。
その水墨画は、当時の日本の水墨画において秀逸な模範の対象でした。

数ある牧谿の作品の中で、最高傑作と言える観音猿鶴図は、宗教性というだけでないと思います。
鶴図で見られる、絶妙な墨が織りなす自在かつ精緻な質感描写。
猿図における大胆なデフォルメ、その絶妙な構成、突き抜けた余白の美・・・。
観音図の下部の岩の表現は本当にスリリング。
周囲の描写が、中央の観音の存在をいっそう力強く、また深遠なものにしています。

外の陽の光が、床に当たり、その光が作品に映える形で参拝者は鑑賞します。
人の動きで作品の見え方は変わります。
掛け軸鑑賞の醍醐味です。
これは、美術館や博物館ではなかなか体験できない鑑賞の楽しみです。

暗がりの中で新たに確認できる筆致の後を確認できたりします。
(例えば、猿図の左下の鬱蒼とした葉の処理は、光の当たり方で見え方が変わります。推測ですが筆だけでは書いたのではなく、箒やブラシのような器具で描いたのではないでしょうか)

また、牧谿筆観音猿鶴図だけをみて満足してはいけないと思います。
所蔵作品が第一室から第六室まで展示されていますが(牧谿筆観音猿鶴図は第2室に展示されています)、第六室からちょっと離れた部屋に牧谿の小さな花の水墨画が掛けられています。

実にみずみずしく、作品のなかの花が今も息づいているかのような印象を受けます。
流麗な線の運び、自在な墨の濃淡は、すばらしいです。
その広い室内がパッと明るくなったかのような印象さえ受けます。
「宋易」と関係があるようです。

そのほか、秋に期間を限定して、黄梅院、真珠庵、聚光院、総見院、芳春院、興臨院、孤篷庵などを公開する場合もあります。
塔頭のうち常時拝観できるのは龍源院、瑞峰院、大仙院、高桐院の4か院です。
龍光院は常時非公開となっています。



京都市北区紫野大徳寺前73-1
:075-492-0068
拝観時間:9:00から16:30
拝観料:400円

交通アクセス
地下鉄烏丸線北大路駅よりバスにて大徳寺前下車

曝涼祭では特別拝観料として1300円が必要です。
図録は1000円。

宋元名画―梁楷・牧谿・玉〓 (1956年)
| 京都の展覧会 | 18:23 | comments(0) | - |
麻田浩展 : 京都市立美術館

心の原風景を求めて


展覧会のポスターが目に留まりました。

そこには、風景がありました。
グレー調のくすんだ遠景に見える湖。

ダブルイメージが交錯する風景。

フィラデルフィア美術館展を
観ようと思ってたのですが

巨匠らの凡作よりもひとりの作家の軌跡をみてみたいと
思いました。

作品はさまざまな技術を用いて
画面の中でイメージを追求していくものでした。
それらはヨーロッパの古典絵画の影響下での方法論です。

初期のアンフォルメル作品などでのマチエールの追求は、
原風景を描いていく後期の作品にも確認できます。

人の居ない風景。
人の存在を剥ぎ取られた風景。

逆説的に、氏の描く風景には
人の不在、ディスコミュニケーション、ディタッチメントをあぶり出しています。

神無き時代に闇雲に
砂上を歩きながら
井戸の水を探し出すような仕事だと思います。

鑑賞者はこのように認識して差し支えないでしょう。

即ち、実際に氏が画面内の
階段を駆け上り
残骸をかき集め
千切れた布をまとめ
小さな生物たちの足取りを観察したのだと。

氏が自ら命を絶った今もなお
その原風景を絵という装置を通して
私たちは風景を目にすることができます。

ここで氏の心の変遷を追体験するだけではもったいない。

その装置をもって各々が
各々の風景をつかみにいけばいい、ということでしょうか。

なぜ、氏の絵画作品の多くが
モチーフに水を必要としているのでしょうか。


凡作も実際に多い。そう思います。
しかし、確かなことがひとつあります。

巨匠と言われる人たちには表現できない世界を
麻田浩氏は表現している(表現しようとしている)。
ということです。

風景は永遠に黙したまま。
誰にもさわれない風景なのかもしれません。

| 京都の展覧会 | 23:59 | comments(0) | - |
片岡健二−渡辺豪 incubation07

京都芸術センターで「顔」の個展がやってます。
渡辺豪さんの豊田市美術館でのベリーベリーヒューマンのインパクトが頭にありましたのでしっかり観てきました。

3Dソフトに様々なスキンを被せているのが渡辺さんの作品の特長。
フォルムはすべて同じなのに、そこに被さっているスキンが違うことから差異が生じ、また別な驚きがあります。

デスクトップで処理された匿名の顔に、不思議な…、親密な感覚を覚えてなりません。

個々の意味が漂泊され、物質的な皮膚のディティールのみの痕跡だけがあります。

マネキン人形に魂の抜けたかのようなスキンを張り付けることで、現代のイコンたりえていると思います。
観ていて宇宙人のようにも見えてきてしまいます。

高精彩な皮膚のディティールは、そのものをみるのではなく、その内に秘められたコンセプトを味わうものでしょう。

顔というキャッチーな作品郡ですが、意図が興味深いです。


もうひとつの個展、片岡健二さんの王道ともいえるコミュニケーションの探りかたは、好きです。
愚直なまでに好きな対象を作品にしてしまっています。今後の作品をみてみたい作家がまた一人増えました。

今回の展覧会を企画したmazzというキュレーター集団の企画、なかなかうまいなと感心します。
可能であれば、一つの空間のなかで二作家の対象的な「顔」を対峙させられたら面白かったろうなと思います。
会場の都合上無理だったとは思いますが。

| 京都の展覧会 | 15:33 | comments(0) | - |
BLOOMY GIRLS(ブルーミーガールズ)/高木正勝(たかぎまさかつ)作品集

高木正勝さんのビデオ・ペインティング



高木正勝さんのDVDを鑑賞。
これまで美術館でしか観れてなかった作品も鑑賞できました。

ちょっと、内容がすごいことになってました。



女性の髪の間から、溢れるように、極彩色が画面中を乱舞していました。

大竹伸朗さんのペインティングのような色彩を感じる箇所もあれば
太陽の表面のうねるような炎にも見える場面もあります。

個々の色が、自分の意志で躍動してるような・・・



終盤の・・・、色と光が 女性の髪にダイナミックに変化していく場面は息をのみました。



絵の具をぶちまけたかのような一見、不秩序な色彩。
完全に作者の意思で自在に画面中を飛び交い、表現として成立しています。

途中、女性を演出するための、色彩なのだと気付きます。

自由自在な色ばかりに目を奪われますが、BLOOMY GIRLSこそが、この作品のいちばんのキモ、です。




高木正勝作品集




| 京都の展覧会 | 20:23 | comments(0) | - |
プライスコレクション「若冲と江戸絵画」展/愛知県美術館

eccentric & fantastic


プライスコレクションの日本での展示も終盤を迎えています。6月10日まで愛知県美術館で開催されています。
動植綵絵同様、ザ・プライス・コレクションの展示もしばらく行われないだろうと考えます。

まず、展覧会の印象です。
コレクションの内容がすばらしいということに尽きます。ジョー・プライスさんがアメリカの古美術店で「発見」した葡萄図、2時間、見ていても飽きません。
これは若沖初期頃の作品にあたるものですけど、まるで絵のなかの葡萄は今にも食べられそうなみずみずしさです。墨のグラデーションの幅だけで、彩り豊かな画面を作り出しています。とても大好きな作品です。

そして「鳥獣花木図屏風(ちょうじゅうかぼくずびょうぶ)」は様々な示唆を与えます。独創的なこの技法が江戸時代に試みられた事実。おそろしいことですね。
2007年現在の今個の作品を見てみてもとても独創的な技術です。
升目(ますめ)描きで点描の視覚効果とは似ても非なる、空間感をつくっています。近景〜中景の遠近がおもしろいのです。なんと言っても、写生のアプローチとその画面が濃密です。これに若沖の色彩感が加わるのですからたまらない。

明治維新後、日本の画家らが、西洋の絵画技法を貪欲に取り込んでいったのは善かれ悪しかれ周知の事実です。江戸期に若沖や抱一等の成した独自性がその後の日本の美術史の中に埋没していたことは残念で仕方ありません。
けして文化の混淆を避けるのではなく、素晴らしい伝統や慣習までも黙殺するべきではなかったのではないかと考えさせる作品です。
伝統とは何か、進歩とは?独自性とは?――鳥獣花木図屏風は、現代を生きるすべての人に様々な示唆を与えます。
クリエイターに限らず多くの人に、鳥獣花木図屏風で達成した若沖の軌跡は再考の価値があります。

他にも水墨画も展示しています。
若沖の軽やかな描線と、暴力的に感じられるくらいに簡略化された鶴や人のフォルム。
これはもうデフォルメなんて形容では済まされないものです。
まるでジョアン・ミロの絵画のようなシンフォニーを感じます。(ファンタジックな浮遊感でも共通する気がします)筋目の技法もあざといぐらい絶妙です。
第一級の抽象画のようです。

まだ観ていない人がいらっしゃったら是非観てほしいです。18世紀の日本のなかで芸術の前衛として活躍してた若沖の絵画世界を堪能できる最後(当分しばらくの間)のチャンスですからね!
ジョー・プライスさんの展示灯の明滅する装置にも驚きます。本当に絵が好きな人が考えだせうる装置ですね。

| 名古屋の展覧会 | 01:35 | comments(0) | - |
影のゆらぎ

日々アート的走り書き



前アップしたのと似たものです。

私はこのブログで、いろいろな人のアート作品について語ってます。
下のは、そんな人の撮ってきた映像です。編集なしです。



今回のは・・・、影のゆらぎです。
見え方が多重露光みたいになってて楽しいなと思います。

映画のようなストーリーは皆無です。単なる影です。


興味を持っていただけたらご覧下さいね。


※サーバーに大変負担がかかる仕様となっています。
また、QuickTime形式ですので、みるためにはQuickTime Playerが必要です (QuickTime Playerのインストールはこちらからできます)。


容量が重いので、見るまで随分待たされます。
忌憚ない批評、感想、印象などお伝えいただければうれしいです。




※【注意】クリックすると、自動的にQuickTime形式ファイルが呼び出されます。
windy14
| 運営者の映像作品 | 00:35 | comments(0) | - |
ギメ東洋美術館所蔵浮世絵名品展

河鍋暁斎が北斎のよりエネルギッシュでした


江戸絵画、浮世絵師の巨匠たち、北斎、写楽、歌麿などの展示が現在大阪市立美術館で行われています。

とくに、写楽の線の美しさを楽しむことができました。
河鍋暁斎(かわなべきょうさい)とエミール・ギメ氏との仏画を通した交流などを知ります。

展覧会自体は、江戸期の浮世絵をアーカイブ、俯瞰できるようになっています。

北斎の描いた龍図虎図の2つで対の作品というのは確かに真近でみても落款の位置、目線の一致など符合する点ばかりです。晩年の作ということか作品からは静けさのようなものを感じます。

ルーブル美術館の東洋部門の所蔵からフランス国立ギメ東洋美術館へ渡った経緯など、ルーヴル美術館の東洋美術コレクションが移管された経緯など興味深いです。
印象派の画家たちに浮世絵がどのように影響を与えたかを知る機会でもあります。

今回私の中で特に印象に残ったのは何と言っても、・・・、写楽でも北斎でも歌麿でもなく、河鍋暁斎の筋骨隆々な仏様の作品です。とても小さな作品で、歌麿のコーナーの展示会場出口付近にポツンと置いていますが、パワーに溢れています。
ひと昔前の若沖同様、河鍋暁斎の日本では正当に評価されていない印象を受けます。この件については、今後多くの美術研究者の尽力を期待したいものです。浮世絵に対する評価は未だに、パリで起きたジャポニスムという逆輸入からの価値観に依っているような気がしてなりません。
ですから、かりに凡作であっても、「浮世絵」というジャンルであればいいというものでもないような気がします。
印象派の作品へインスパイアを与えたという口実ですね。それだけの鑑賞では物足りないと思います。


今回のベストワークは、巨匠らの凡作ではなく、河鍋暁斎のエネルギッシュな作品だと感じました。


河鍋暁斎をご存知ないかたへ。ご参考にどうぞ。
http://www2.ocn.ne.jp/~kkkb/Kyousaij.html


雑誌のインタビュー(BT)で「河鍋暁斎がアツい」とおっしゃっていた松井冬子さんのことを思い出しました。


| 大阪の展覧会 | 15:50 | comments(0) | - |
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